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2009年10月10日

平敷兼七氏を悼む   

平敷兼七氏を悼む
 弱者への共感満ちる写真
        

 沖縄現代写真の旗手・平敷兼七氏が10月3日未明、家族に看とられながら、永久へと旅立ってしまった。このあまりにも急な訃報に誰もが耳を疑った。肺炎を発症し、期せずして2日目に迎えた突然の終焉。61歳の若すぎる結末を、彼を知る誰もが受け容れたくはなかった。
 平敷氏は1948(昭和23)年、今帰仁村上運天に生をうけた。沖縄工業高校デザイン科在学中に写真に魅せられ、東京写真大学を経て、69年東京綜合写真専門学校へ進学。在学中から頭角をあらわし、同年『週刊ポスト』に「祖国復帰を拒否する女達」を発表。沖縄タイムス・ホールでの初の個展「オキナワ・南灯寮」を開催。翌70年『カメラ毎日』3月号に「故郷の沖縄」を発表。以来一貫して「沖縄」だけを撮り、写真によって「人間とは何か、沖縄人とは…」を生涯探求しつづけた。
 彼の写真に収められたのは、名も知れぬ人たちの日常と、その延長線上に浮かび上がる祭祀の光景。そして自身の家族や友人、知人の姿である。いずれもが非商業的で真面目(シリアス)な眼差しに貫かれている。鉄の暴風に襲われた沖縄戦での地勢崩壊、その後の米軍統治、日本復帰など、いきなりもたらされ、押し付けられた社会構造の劇的な変容。それら構造と地勢の変化がもたらす歪みによって、不遇にも底辺に否応なく皺寄せされた無名の人々。あるいは黙々と離島苦を生きる人たち。つまりは社会的な弱者にだけ、彼のカメラは向けられた。
 彼はこう記している「カメラを持っても、被写体や場から滲み出てくる何かがあるまで、じっと待っている。写真は偶然性のものだけど、カメラマンがシャッターを切ることは偶然ではない。そこに何か共感しているから切る。それがその人の感性なんだと思う」。
 彼の感性から導かれる眼差しと写真作品には、俗受けを狙ったいやらしさや、はったり、ごまかしは一切ない。せっぱつまった(ドラスティックな)状況を被写体に求めることもない。その姿勢は、被写体から何かを「奪う」のではなく、「受け容れる」心に満ちている。シャープな切り口(フレーミング)だが、温かく、優しい。撮影には、想像を絶するほど長期の歳月をかける。そして、それを発表するのも、心の中で納得できるだけの熟成の歳月を要した。
 2007年彼の主著となる写真集『山羊の肺沖縄一九六八―二〇〇五年』(影書房)が刊行された。この写真集は、当時大学生だった中條朝氏が平敷氏とその作品に出会い、強い衝撃と感銘を受け、写真集刊行を決意して奔走。南風原文化センターを中心に県外にもまたがる友人・知人らの支援によって創り出された、幸せな写真集である。同名の写真展が東京、大阪で開催され、県内写真界としては初となる伊奈信男賞を受賞。平敷氏の写真世界への深い理解と高い評価も定着し、いよいよこれからが彼の活躍も佳境を迎えようとしていた、その矢先の訃報。まことに無念である。
 末尾に私事を記させていただく。1971年7月、私は初めて沖縄を訪れ、平敷氏と出会った。米軍統治下にあった沖縄での私の「身元引受人」であり、最初のウチナーンチュの親友である。私は厚かましくも半年に亘り、平敷宅に居候を決め込み、写真暗室をいっしょに作ったりした。彼の撮影にはいつも同行させてくれて、島での人との接し方や作法を私に無言で教えてくれた。翌年、私は宮古島で下宿することになるが、そこに彼が訪ねて来てくれた。宮古・八重山の祭りを求めていっしょに旅したのが、忘れられない想い出である。
 以来、彼との交友は途絶えた事はないが、今年の6月、彼からこう声をかけられた。「あのとき、ふたりで撮った宮古島狩俣・島尻のウヤガンの写真で二人展をしよう」。いまとなっては、この約束は実現できず、私の心はぽっかりと空いたままだ。 私の沖縄の写真の出発は、彼の導きによるものである。私はこの御恩への感謝を忘れた事はない。これからも忘れない。
 彼を知る全ての人たちとともに、彼の冥福を祈りたい。
勇崎哲史ゆうざきてつし:写真家/プランナー。1949年札幌市生まれ。2007年から那覇市


タグ :勇崎哲史

Posted by とよチャンネル at 14:46

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